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一番目の小部屋に入ると、オーケストラの独奏者のごとく、世界で唯一の軽くて非常に珍しい18世紀に作られたニードルレースのウエディングドレスが展示してある。陳列ガラスには伯爵夫人マリア・ワレヴスカによりナポレオンボナパルトの息子のために作られた、刺繍のベットカバーが見られる。ここにはナポレオンボナパルトの載冠のため、刺繍されたハンカチが展示してあるが、カルトジオ様式の五羽の鷹が皇帝の冠を形作っている。狭い階段を上がると、レッツの枢機卿により1650年ごろ、ブラーノ様式で作られ、サヴォイア家の所有となっている婦人服用の飾り布のオリジナルがある。
中央に専用の陳列ガラスがあり、様々な時代の歴史的価値のあるレースが飾られている。特に注目したいのは、ボビンレースの上品なテーブルセンターで、18世紀のもの、ド−ジェ(首長)夫人の所有であった洋服の一部もある。小部屋を横切ると、別の時代にさかのぼり、種々の技法で作られたレースが並び、次の部屋へと続ク。ここには18世紀の握りの部分が象牙で微妙な細工が施された小さな傘、ニードルレースで作られたふんわりしたブラウス、そして時間を超えて現在しているのが奇蹟とも言える上品なベットカバーは、中央に花模様で囲まれた二人の天使を配してある。壁にある5つの肖像は、カーテンの中に大きく挿入するベースとなる、千八百年代の初頭の者である。ここに紹介したのは歩きながら見ることができるアンティークレースのギャラリー『ダッラ・リディア』の部屋のほんの一部である。
1872年の極寒の冬、ブラーノ島付近のラグ−ナが氷でおおわれ、島の住民の生活資源である漁ができなくなる。たくさんの家族が飢饉に瀕し、貧窮は深刻を深めた。緊急援助はブラーノの共同体を救うことを第一目的に、住民の生存を補償するために呼びかけられ、ヴェネチアとイタリア全土が惜しみなくそれに応じた。サンマルコの加護のもと、マルゲリータ女王は、島のレース工芸を復興することを考える。その目的のため、ほとんどのステッチを覚えていた一人のブラーノの老女、チェンチア・スカリオーラが、子の古い工芸を島の若者に教え始めた。こうして、ブラーノのレースはよみがえった。このレースの学校は目覚ましい発展を遂げた。生徒数は最初の11人から増え続家、1878年には250人に、1906年には770人にも登った。中門は羽成の漁に達するまでに回復し、始めはマルゲリータ女王、メーテルニヒ王女、バーデン大統領夫人ナど、イタリアの貴婦人やイギリス、アメリカの貴婦人が主な得意先であった。また一世紀前のように、レースのショールや婦人服の袖や衿のレース飾りが流行し、刺繍を施したテーブルクロスや教会の神聖な祭壇布にも作られた。再びアンティークを実行する針が素早く滑り始め「クシネッラ・デ・ストラッサ:レースを固定する枕」の上で作業するレースに、地方の方言のミュージカルで言うように、特に飾りとしての比類のない特徴を与えている。彼ら独特の花、野バラ、動物、背景に星型をちりばめたプレートなど、ブラーノ・レースは世界で唯一のものである。レース学校は浮き沈みはあったが、1972年に決定的に閉校となるまで、その仕事を続け、熟練した手も休まなかった。しかし、これらすべての事にもかかわらず、現在もブラーノ島の中心部にレース工芸は生き残り、アンティークレース・ギャラリー付属の『ダッラ・リディア』は、確かに本物の店であり、美術館でもある。ここには新しい価値の高い作品が仕上げられ、古い工芸の秘法が保存されている。テーブルセンター、シーツ、ベットカバー、すべての用途に合わせて数多くのレースを買うことが出来る。ギャラリーでは、貴重なレースを大切に保存している。その希なる美しさに、ひとときあの優雅な、この島に初めて秀作を実現させたあの海の落とし子、海草を惜しんで、その着想を得た娘の伝説を思い出してもらえるだろう。島の空は明るく澄み切って、あのレースの透明さに近付こうとしているかのようである。
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